オフィスカノンの会長にして日本が誇るスポーツジャーナリスト
第四回 ワールドカップ回想記
アルゼンチンがブラジルとともに散った南アの異変!
優勝候補としてのアルゼンチンについて監督マラドーナが豪語したのは試合前のこと「勝つのは俺たちだ。マスコミは勝手に書けばよい・・」準々決勝でドイツと当たった。
前評判は芳しからざるもののあったドイツだが、黙って引っ込むチームではない。そう思ったとおり組織の集団は鮮やかであった。
ドイツのサッカーは決して華麗ではないが逞しさと鍛え抜かれた組織力で着実に展開し、大試合になるほどに力を発揮する伝統がある。つまり下馬評に左右されることのないチームで臨んでくる強豪だ。
この顔合わせは、個人技の南米と組織の欧州という見所を期待したが、一方通行で ドイツのトータル・フットボールが確実に表現された試合であった。
マラドーナのエリート意識がエースのメッシにかけられていたのは当然としても、あくまで戦法もまた個人技であった悲劇が0-4の惨敗を招いた
。
日本のサッカーの恩人はドイツ人「デトマール・クラマー」で、 戦後の日本を奮い立たせた信念の人だ。メキシコ・オリンピックで日本が銅メダルを獲って世界にアピールした原動力になった人でもある。
だらしのないプレーや、激しさに欠ける選手がいると、「日本人は大和魂を忘れたのか」日本の指導者が誰も言わない言葉で檄を飛ばした情熱の人であった。
ドイツがアルゼンチンを一蹴した深夜、私はタイムトンネルを潜って1982年のスペイン大会を思い出していた。
その前回である1972年アルゼンチン大会から中継を始めたNHKはこのとき日本初の生中継で臨んだが、次のスペインでも日本がこの舞台に立つになんて遠い夢であった。
大会も残りがベスト4になった日、私はカルメンの故郷である「セビリア」、(現地では「セビージャ」)の空港に着いた。夕日が沈む前だった。
何しろこの大会では国内を航空機で移動した回数が16回にも及んでいたので、実況アナとしても全て消耗していく体力との勝負であった。
今年の南ア大会のPK戦は日本を含めて悲喜こもごもだったので、サッカーの非情を改めて認識されたフアンが多かったと思うが、私が今日まで中継したサッカーの試合で今も尚、心に焼き付く名勝負は、 1966年東京国立競技場の空も地も揺るがした「日本対韓国」戦と 1982年のW杯スペイン大会の準決勝「西ドイツ対フランス」の真夏の夜の決闘である。
前者は翌年のメキシコ・オリンピックへの出場権をかけての凄絶な争い。
東京オリンピック開催の日10月10日はアジアに初めて聖火が燃えた記念の日だ。日本は引き分けても得失点差で出場が決まる。一方韓国は勝たねばならぬの意気込みで気迫のゲームを挑んだ。
結果は3対3で引き分け、日本はオリンピックに出場。本番で銅メダル獲得。エース釜本は大会の得点王となって一気に名を広めたものだ。
後者は西ドイツとフランスの一大ドラマであった。
7月8日、65、000人の観衆が酔いしれた名勝負であった。 役者揃いの両国からは、それぞれの演技を披露して、見るものの予断を許さない。先制したのは西独で、リトバルスキーだった。
しかしフランスもPKを拾うと華のプラテイニで追いつき一進一退のまま譲らず。延長戦に入ると、フランスは前半立て続けに守護神トレゾール、マジシャンのジレスがたたみ込んで断然有利に立つ。さしもの大熱戦に大勢決したと見たのだが、西独は12分途中出場で負傷も癒えぬままのルンメニゲが前半残り2分で入れてきた。
1点差に迫るや西独は怒濤の寄り身を見せる。延長後半に入ってトップのフイッシャーが同点弾を決め込んだのだった。 ついに同点。決して諦めぬゲルマン魂が炸裂する猛烈な試合であった。
結果はPK戦、またしても西独が後手を引く。スペイン・リーグのスイーパーであるシュテイーリケがセーブを受け、失敗。
だがまたしても絶対不利の中から西独はフランスの自滅があって蘇生したのである。
幾度か勝利を確信したであろうフランスの敗戦に「 レ・ミゼラブル・・ああ無情 」と私はマイクに叫んでいた。
PKは余りにも非情に過ぎる。南ア大会の今年も私は新旧併せたPKの感慨に浸るのであった。