羽佐間正雄

オフィスカノンの会長にして日本が誇るスポーツジャーナリスト

第三回 W杯の回顧

「日本の皆様、こちらは地球の裏側アルゼンチンです・・」

日本に初めてワールドカップ・サッカーを生中継したのは一九七八年(昭和五十三年)のことだった。

日本は梅雨を前にした6月の初めだったが、実況に向かった私は寒くてたまらず、防寒コートを買う羽目になっていた。 長い長い旅の末のことだ。実況席で開口一番、思わず「地球の裏側・・」と言ってしまったが、間も置かず東京からのメモが入った。

「裏側は使わないように・・」NHKとは、かくのごとくスゴーイところなのだ。

かつて天気予報も表日本、裏日本と表現していたのだが、太平洋側と日本海側に改められた。言われてみれば表と裏にはイメージの差がある。「日本海と言うくらいだから、こちらが表だろう」という主張もあったようだ。 アナウンサーにとって日本語は正確を持って原点とする。かつてのアナウンサーは正しい日本語の伝え手という自覚を重く内蔵していた。

アルゼンチンは内乱の後でもあったので、街の至る所に弾痕があって不気味さも残っていたが、空港は海外からの客人を迎える表玄関。外国の皆さんを迎えるのはタクシードライバーということで、運転に当たるものは「一切の長髪禁止」「ネクタイ着用」「外国の人に丁寧に」のお達しが出ていて、軍事政権の戒律は厳しいものがあった。

何しろ日本がワールドカップに出るなんて遠い夢のまた夢である時代のことだ。 日本からのサポーターなど存在せぬ状況だから、極めてニュートラルな立場での仕事に勤しんだものだ。

結局大会は得点王となったマリオ・ケンペスという髪をなびかせ突っ走り、ゴールにぶち込んだヒーローの出現で快勝。地元アルゼンチンの優勝で幕を閉じるのであった。 やっと解放された心地でプレス・バスに乗り込んでホテルに向かうと、自由大通りという巨大な幅の100メートル道路があって、ここで戦勝に沸くフアンが溢れかえっていて、立ち往生してしまった。

早くホテルに帰って空腹に給食をと、バスから降りたとたんに群衆の渦に巻き込まれてしまった。ホテルまで後五十メートル。押され押されて揺さぶられ、ウインドウの並ぶ商店街に流されてガラス崩れるバリ、バリ、バリと破裂音に、身の危険まで背負いながら、必死に押しくら饅頭さながらに、亀の歩行で50メートル30分の苦闘の末やっとたどり着いたホテルでは「セニョール、セニヨール」の案ずる声に抱かれて全身脱力するのであった。

思えば三十二年前。海外からの中継はひたすら体力勝負であった。私四十六歳。

遙かな昔の物語。今アルゼンチンの指揮をとるマラドーナがまだ二軍に控えて出場の機会も無かった。